意外なほど、目の前の局面を眺める心境は穏やかだったような気がする。呆然とするわけでもなく、悔しさに体を震わせるわけでもなく。
読みきったぞ、と言わんばかりに切られた8八の竜を見て、ああ負けるんだな、とボンヤリ思っていた。

そして―――――「投了」の文字が目の前に現れる。ピロッ、という軽快な音と共に。


それは、長い長い夏の終わりを告げる残酷な音でもあった。



10月になった。亀は北国の寒い寒いところに住んでいるので、朝晩は特に冷え込む。
そんな中、「24の夏祭り」リレー将棋は佳境を迎え、いよいよベスト4をかけた戦いである。10月6日。相手は、2100点台、2400点台という強豪2人を擁する「武白龍」チーム。

油断はもちろんしていなかったが、自信はあった。何度も何度も敗戦を覚悟しながらここまで勝ち上がってきた勢い。そして、相手チームの主力戦法は四間飛車。
こちらが居飛車にすれば主導権を握る展開にしやすいし、振り飛車党の亀には「美濃囲いの急所は自分が一番心得ている」という自負があった。矢倉の急所はほとんど知らないのだけれど。

開始直前、3将の美貴様から「2将が終わるまでに、相手の美濃を崩すのに必要な駒を教えて」と頼まれたのが少し嬉しかった。



何度経験しても消えてはくれない緊張感の中、いよいよ対局開始。今回のオーダーは、1将ガキさん、2将安倍さん、3将美貴様、4将亀。実はこれで亀は、1将から4将まで全て経験したことになる。この珍記録、過去に何人達成したのだろうか。

今回のオーダーの狙いは、相手の四間飛車に対して美貴様の得意戦法「右玉」を使おうというもの。
…だったのだが、▲2六歩△3四歩▲2五歩△3三角▲4八銀の出だしに相手は△2二飛!と向かい飛車にしてきた。想定していないというわけではなかったが、四間飛車に照準を合わせていただけにあまり嬉しい戦形ではない。

ガキさんは落ち着いて穴熊を目指した。



急戦狙いの陣形から相手が動いてきた第1図。△3五歩が通常の向かい飛車とは違うところで、▲2四同歩△同飛▲2五歩(飛車交換は陣形に隙が少ない後手良し)△2二飛のあと△3四銀から△2五銀と2筋を突破する順を狙っている。

先手は左側に寄せたかった5八金と4八銀を2筋の受けに使う、不本意な展開となった。



第2図。2将の安倍さんが粘り強い指し回しで2筋を守り、とりあえず2筋は安泰かと思われたが、ここで▲2六角と歩を取ったのが痛恨の手順前後。▲3六金△同歩に▲2六角ならまだまだ難しい勝負だった。

本譜は単に▲2六角としたため△2七歩が痛烈な一手。▲同銀は△4七銀成なので泣く泣く▲1八飛だが、△4七銀成▲同銀△2八金で飛車を詰まされてしまった。

劣勢を自覚せざるを得ない状態だが、これまでも1人の悪手を4人でカバーしながら勝ち上がってきたのだ。その姿勢は、もちろんこの将棋でも変わらなかった。



第3図の▲7九金打。根性の一着である。穴熊は、そしてリレー将棋は、こうやって粘るのが逆転勝ちへの第一歩になるのだ。

美貴様は、交代の際の作戦会議で亀が「桂がほしい」と言った通りに桂を入手し、8六に香を据え、4七の銀を6五に出て、精一杯に相手陣に嫌味をつける。

たった1つだけ不運なことがあったとするなら、それは相手の指し回しが鬼のように正確だったことだろう。
2七の歩が「と金」になって3八、4八、5八、と迫り、3三の飛車を成り込んで2枚飛車+と金の攻め。鉄壁の穴熊城が徐々に崩れてゆく。



亀にまわってきた局面が第4図。

―――――自分が投了ボタンを押すことになるのかもしれない

そんな考えがふと浮かんだ。浮かんで、すぐに振り払った。
自分が考えるべきことは、どうやって相手を慌てさせ、焦らせるか。ただそれだけなのだ。

第4図から▲7四桂△同歩▲6八飛△同角成▲6九金△同馬▲同銀△同竜▲4七角△6八竜▲7四銀(第5図)。作戦会議で示された順を、ほとんどノータイムの連続で指した。少しでも相手を焦らせるために。



第5図。△7八金で受けなしである。▲8三香成も△7一玉でハッキリ届かない。

―――――震えろ、震えるんだ……

必死に念じる。不思議な話だが、将棋では「念力」というのが時々あるらしい。間違えろ間違えろと相手に「念力」を送ると、稀に間違えてくれることがある。

果たして、時間切れスレスレで指されたのは△9三金。▲6五馬に△9二銀。

―――――何かあるはず。考えろ、何かあるはずだ。

秒読みの音が容赦なく追い立てる。―――▲5五馬。

勝利の女神は既に、後手に微笑んでいたのである。


将棋を指していて最も辛いのは、投了するときではない。最も辛いのは、勝ち目がないと分かっている将棋を指し続けるときだ。
それでも、指し続けるしかなかった。指し続けて、次のガキさんにまわすことしか考えていなかった。自分1人ではなく4人で戦っているのだから。



第6図。なんとか、ガキさんにバトンを渡した。もちろん形勢は必敗形のまま。

野球で言うなら、9回裏ツーアウト、ランナー無しで10点はリードされているのだろうか。それでも、最後のアウトを取られるまで勝敗は決まらない。1%にも満たないであろう奇跡が時には起こるし、実際に他チームの対局で目撃もした。

しかし相手の指し回しは最後まで見事だった。一瞬震えた場面もあったが、決して奇跡の大逆転を許すことはしなかったのだ。



第7図。ガキさんが投了ボタンを押したその瞬間、モ娘(狼)軍の長い夏が終わった。



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